国会中継を見ていると、演説の途中で「ヤジ」が飛ぶ場面に出会うことがあります。
「静かに聞けばいいのに…」「なんであんなに怒鳴ってるの?」と感じたことがある人も多いかもしれません。
先日、高市早苗総理の初めてとなる所信表明演説では、演説の冒頭から野党席・与党席ともに声が飛び交い、テレビ中継の視聴者をハッとさせる場面がありました。
では、あのヤジ――いったい何のために存在しているのでしょうか。
ヤジの本来の意味と起源
そもそも「ヤジ」という言葉は、江戸時代の芝居小屋などで観客が役者にかける野次(やじり)からきているといわれます。
つまり、もともとは観客の「声かけ」「反応」だったのです。
国会におけるヤジも、形式的には「議論に対する反応」。
相手の主張に対して「それは違う」「聞き捨てならない」と思ったときに、思わず声を上げる――そんな“生の感情”の表れでもあります。
実は、国会法や衆参両院の規則でも「ヤジをしてはいけない」とは明記されていません。
ただし、議事の妨げになる場合は、議長が注意や退場を命じることができます。
つまり、ルール上は「禁止」ではなく、「節度が求められるもの」とされているのです。
ヤジがもつ「議論を活性化する」一面
一見すると騒がしく、印象の悪いヤジですが、政治の現場では「議論を活性化させる要素」として肯定的に語られることもあります。
たとえば、演説や答弁において誤った事実や曖昧な表現があったとき、すかさず相手議員が指摘の声を上げることで、「その場での緊張感」を生み出す効果があります。
議論はキャッチボール。ヤジをきっかけに「今の説明では足りない」「ここをもう少し詳しく」という流れが生まれることもあるのです。
イギリスの議会などでも、ヤジやブーイングは日常的にあります。
ただし、相手を侮辱したり、人格を否定するような言葉は厳しく禁じられています。
「表現の自由」と「品位」の線引きが大切にされているのです。
問題視された、所信表明演説におけるヤジのあり方
高市早苗総理が2025年10月24日に行った初の所信表明演説では、与野党問わず議場内で多数のヤジが飛び交い、演説の冒頭から数分間、演説が中断される場面が報じられています。
具体的には、「旧統一教会はどうした!」「裏金を説明しろ!」などの声が野党席から飛び、演説者の声が聞こえづらい状況が続きました。
また、与党席から「静かにしろ!」などの声も上がり、議場の緊張感と騒然とした空気が報道されました。
この状況を受け、SNS上では「学級崩壊みたい」「日本の恥だ」といった批判が殺到。議員が演説を遮ることで、国民が聞くべき演説の内容が埋もれてしまったという指摘もあります。
こうした「ヤジが議論ではなく騒音になっているのでは?」という疑問が、今回の演説を通じて改めて浮き彫りになったと言えるでしょう。
演説という国民に向けた政府の方針表明の場で、予定されていた話を十分に伝えられないほどのヤジ騒動が生じると、それは国民の「聞く権利」を阻害することになります。
「ヤジ文化」はなぜなくならないのか
では、なぜヤジは今も続いているのでしょうか。
一つの理由は「議場の構造」にあります。
国会は、議員同士が向かい合う形(対面式)で座る「対抗型レイアウト」。
これは、与党・野党が向き合い、意見をぶつけ合う構造を象徴しています。
相手の顔がよく見えるからこそ、声をかけやすく、感情も表に出やすいのです。
もう一つは「議会の伝統」。
政治の世界では、ヤジもまた“文化の一部”として長く受け継がれてきました。
それを「議員として当然」と考えるベテラン議員も少なくありません。
一方で、若手議員や女性議員の間では「ヤジを減らしたい」「静かな議場で議論したい」という声も増えています。
近年では、議長が積極的に注意を促したり、ヤジが問題化した際にSNSで炎上することもあり、少しずつ意識は変わりつつあります。
市民の声が“空気”を変える
国会の雰囲気は、政治家だけでなく、社会全体の空気とも深くつながっています。
SNSでの反応、ニュースの報じ方、そして私たち一人ひとりの「それはおかしい」という感覚が、議場に届く時代になりました。
「ヤジなんて昔からあるもの」と流してしまうのは簡単です。
けれども、政治が私たちの代表である以上、国会の姿勢もまた、社会のあり方を映す鏡です。
ヤジが飛び交う中で「声をあげること」と「相手を尊重すること」の両立を、どう考えるか――それは、私たち自身への問いでもあります。
「議論の活性化」と「礼儀の維持」、このバランスをどう保つか。
それは、政治だけでなく、職場や学校、SNSなど、私たちの日常にも共通するテーマです。
ヤジから見える「政治の距離」
ヤジの問題を考えると、もうひとつ見えてくることがあります。
それは、政治がまだまだ「遠い存在」だと感じる人が多いという現実です。
国会が“騒がしい場所”のままであれば、「自分たちとは関係ない世界」という印象を強めてしまう。
だからこそ、ヤジのあり方を見直すことは、「政治を身近にする」第一歩でもあるのかもしれません。
静かな議場で、互いに耳を傾けながら意見を交わす姿。
それこそが、これからの政治に必要な「成熟」のかたちではないでしょうか。
暮らしと政治を“つなげて考える”一歩になるように。