役所の“分厚いファイル”を見た日のこと
市役所の窓口で、自立支援の対象になる病院や薬局を探してもらったときのこと。職員さんが取り出したのは、カラオケの歌本のように分厚い紙のファイル。指でページをめくりながら、一つひとつ探していく姿に驚きました。
「えっ…この作業、全部“手”でやっているの?」
そんな疑問がふっと浮かび、同時にどこかモヤモヤも残りました。
多くの自治体が抱える日常的な作業は、私たちが思う以上に“アナログ”的です。
こんなに非効率なのに…なぜ紙は残り続ける?
デジタル化と言えば、便利で効率的なイメージがあります。
それなのに、役所では紙の管理が今も当たり前のように続いています。
なぜなのでしょう?
実は、その裏にはいくつかの“構造的な理由”があるのです。
「紙」を手放せない根本的な理由
① 運用を変えるハードルがとても高い
行政の手続きは法律・政令・省令・自治体ルールなど、多層的な決まりごとで成り立っています。
もし「システムに一本化しよう」としても、それだけでは済みません。
- 画面の仕様を決める
- 運用フローを再設計する
- 既存の紙の情報をすべて移行する
- 職員全員に研修する
- 障害時のバックアップ手順を整える
これらを同時にクリアしないと、デジタル化は前に進みません。
「システムを導入する」だけでは自治体の業務は動かない──ここに大きなギャップがあります。
② 紙は“責任の所在”を明確にしやすい
行政は「間違えてはいけない仕事」がとても多い世界。
紙のリストは古く見えるけれど、実は“誰がいつ確認したか”を残しやすいという特徴があります。
- 印鑑
- 日付
- メモ書き
- 保管場所が固定される
こうした要素が「責任の明確化」に役立つため、紙が簡単には手放されないのです。
行政のリスク管理では「確実性」が重要視され、“確実に残せる紙”が根強く支持されています。
③ 大きなシステム変更は“止められない”性質の仕事
自治体の手続きは、毎日途切れることなく動き続けています。そのため、システム移行のために業務を止めることがとても難しいのです。
たとえば病院・薬局のリストひとつとっても、
- 医療機関の追加
- 住所変更
- 指定取消し
- 種別変更
こうした更新が年間を通して発生します。
移行中にミスが起きれば、住民の支援に影響が出てしまう。だから、慎重さが優先されます。
④ デジタル化の“予算”が一度で確保できない
自治体の予算は年度単位。
しかも複数課にまたがるデジタル化は、調整だけで数年かかることもあります。
- 年度ごとに予算要求
- 企画書の精査
- 議会での承認
- 他部署との連携調整
- ベンダーとの契約手続き
この“時間コスト”が想像以上に大きく、紙のファイルが“そのまま”残り続ける背景になっています。
住民サービスに近い分野ほど「止められない」「間違えられない」ため慎重さが増す傾向があります。
では、なぜ“変わらない”と感じるのか?
ここまで読むと、「紙の方が安全な場面もある」ということが見えてきます。
それでも、私たちはどこかで“時代遅れ”と感じてしまう。
その理由は、暮らしの中で私たちがすでに、スマホ・アプリ・オンラインサービスに慣れてしまっているからです。
私たちは当たり前にできていることでも、自治体では「法的な裏付け」「責任の所在」「データ保全」「ベンダー依存」「運用負荷」など、乗り越えるべきハードルがいくつもあります。
デジタル化そのものが目的になると、かえって住民サービスが遅れる場合もあります。
“紙”は不要ではなく、役割が変わりつつある
自治体の現場を見ていると、紙はただの「古いツール」ではありません。むしろ、デジタルではカバーしきれない部分を補完する道具でもあります。
- システム障害時のバックアップ
- 法的な提出物の証拠
- 住民との対面手続きの安心感
- 細かな注釈や職員の経験知をメモしやすい
つまり、デジタル化と紙は“対立するもの”ではなく、どちらにも役割があり、共存しながら進んでいるのです。
「紙を減らす=良いこと」とは限らず、適材適所で両方を使い分ける流れが進んでいます。
少しずつ進む、“変化の芽”
実は、自治体のデジタル化はここ数年で大きく進み始めています。
- オンライン申請の拡大
- マイナンバーカードとの連携
- 基幹システムの統合
- 電子決裁の導入
- オープンデータの整備
大きな改革はゆっくりですが、確実に変わりつつあります。
それでも、窓口の“分厚い紙のファイル”が残っているのは、「今すぐは変えられないけれど、いずれ変わっていく途中」という段階にあるからかもしれません。
私たち市民ができること
デジタル化の遅れを嘆くだけでなく、私たち市民にもできることがあります。
- 手続きの感想や不便を、声として届ける
- オンライン申請が使える場面では積極的に利用する
- 議会や広報を通じて、自治体の取り組みを知る
- “批判”よりも“改善提案”として伝える
住民の「こうだったら助かる」という声は、行政のデジタル化を後押しする大きな材料になります。
紙を見て感じたモヤモヤは、社会の“変わり目”のサイン
窓口で長い時間待ったこと。
どこかで見たような分厚いファイルが登場したこと。
窓口で説明を受けるとき、職員さんが厚い紙の束をめくりながら確認している場面を見たことがある人も多いはずです。
行政の手続きの場面で、ふと「なんでこうなんだろう?」と感じた経験は、おそらく誰にでも一度はあるはずです。
その小さな違和感は、決して勘違いではなく、私たちの暮らしのスピードと、行政の仕組みのスピードの差を感じ取っているサインなのかもしれません。
便利になった日常。
オンラインで完結できるサービスが増えた毎日。
それらに慣れた私たちの感覚と、慎重に積み重ねてきた行政の仕組みは、ときどきすれ違うように見えることがあります。
「なんでまだ紙なんだろう?」という素朴な疑問こそ、社会をよくしていく最初の入り口になる。
行政と市民のあいだの距離は、無関心からでも批判からでもなく、“気づき”を共有することで少しずつ縮まっていきます。
私たち一人ひとりが感じた小さなモヤモヤは、これからの仕組みを考えていくための、とても大事なヒントです。